やわらかい雨が浜風に乗って
心と秋の空
あるところで揉めている人たちの姿がクローズアップされると、それに知らない人が参加して各々の意見や感想を言う。そのためのアカウントを用意することもあるらしい。裏アカウント、それが個人を特定することができないという意味だと思われている。
実際にはそれが本来の自分である。あえていうとするなら、マスクを被った自分ではなく、全裸の自分だ。
とはいえ足もつかず、特定もできないということだとして、発するその声は、存在していると言えるのだろうか。もしも機械が何かを言っていたら、それをどのように受け止めるのだろうか。
ただ、そんな大勢となった声が誰かを救うこともある。
そんな大勢となった声が、1人にして巨大な力を持つ人に、無視できないという表現によって扱われることもある。
大勢のひとりになった人が、「やってやったのにうまくいかねえのかよ」と文句を言うこともある。
そんな様子を見て見ぬふりをするのも、何だその態度はと新たな火を生むのも人間である。
その様子を小馬鹿にしながら生き続けるのも人間である。
いろんな人間がいる。
自分が参加する物語は常に正である。 だがその非合理性こそが人の持つ美しさでもある。
表を歩く僕の顔に、やわらかい雨が当たった。少しだけ風が強いだけのなんでもない1日のワンシーンだ。ただその手のなかで広がる広い社会の中では人が様々なことばを紡いでいる。ことばを紡ぎながら社会や時代が少しずつ前進していくとするなら、いまは雨の日の方が進むスピードが少しだけ早いのかもしれない。