川の水が流れる音が顔に当たって、透き通った空気と私との境界を曖昧にした。 ごうごうと流れる音は私がどちらを向くかによって、その音色を変えた。 その度に、新緑が、橋を渡る車が、古びた家の外に無造作に置かれたおもちゃが、私を見た。 彼らが私を、見…
大丈夫ですと答え続けた。そう言うことができない、それが道を踏み外すということだと思っていた。 ふふ、あんた本当に大丈夫なの? 大丈夫じゃないと打ち明けた。そう言う機会は限られていると思っていた。 お手洗い以外では用を足してはいけない。漏らすな…
見ているものに意味があると考えたくなる。 陽が降り注ぐ、枝を見上げる水の中に降り注ぐ雨。 その奥に潜む草、通りかかる私。 そしてその下にある石。 いつかここにきたあなた。 あなたはここをよく通っているの? 見ていることに意味があると考えたくなる…
前を見て歩いた。それを思い出そうとした。 ところが前に何があったのか、一向に浮かんでこない。 わたしは、陽炎を見た。 わたしは、陽炎を見たのだろうか。 スマートフォンを取り出した。 覗き見た仮想空間にいる友達の呟き、知らない人が騒いでいるかのよ…
目線がどんどん高くなっていくにつれ、見下ろすようになった。 見守る気持ちを大事にしようと思っていたのに、本当に大事にしていたのは、見守ることができる私だった。 そんな私を今ゆっくりと見下ろしていた。 今ゆっくりと山に入ろうとする人に勇気を持っ…
暗い時にはあかりの落ちているところを探して歩き、明るい時には暗いあかりの落ちているところを探して歩く。 立ち止まった時に誰かが見ていたら、明るいところがいい人もいれば、暗がりに隠れている方が心地いい人もいる。 どんなあかりがいいかいつも探し…
影 時計の針、PCのファン、エレベーターの上下する音。その中に、コーヒー豆をする激しい音が鳴り響いた。 誰もいないオフィスの中に。ごぽごぽという音が聞こえ、カップの半分ほどのところまでコーヒーが入ると、あとは力なく、コーヒーの雫がぴちょんぴち…
生活 「はさみがない、はさみ、はさみ」 と、微かな声を出しながら部屋を徘徊する、赤い服を来た男がいた。 部屋は整頓されているけれど、ある場所は物が溜まっていて、ある場所は物がない。 だから似たような場所を行き来しながら、本やケースを持ち上げな…
生活 談笑する中年の女性店員たちの後ろで、ひたむきにレジの対応を行う彼女の名前を僕は知らない。 20時を過ぎた店内は、外と対して気温が変わらない。南瓜や栗の味のお菓子や、紫色のパッケージが店内を少しだけ彩っていた。 ポイントは貯めていない。彼女…
影 道路の方に目をやると、交差点を右に曲がろうとウィンカーを出した車を僕は捉えた。 赤い軽自動車だった。停止線に向かってじっとりと進んでいき、やがて止まった。 その左脇を1台の原付がするりと走っていき、軽自動車の前に出た。 その後のことは見てい…
生活 イタリアンサラダ、豆腐、竹輪。いつものものがカゴの中に詰まれていった。 なぜパプリカが少し入っているだけでイタリアンサラダと呼ぶのかは、あまり疑問に思わないようにしている。 降りなさい、やめなさい、あぶないでしょと注意する声はもう遠くに…
影 「日替わり定食ふたつ」 「ひとつはごはんすくなめでお願いします」 カウンターに座り、いつもの日替わり定食を待つ僕のそばから、そんな声が聞こえた。今日はアジフライらしい。空は少し曇っていて、風は穏やか。気温は暑すぎない。心は凪いでいた。 隣…
生活 迷彩模様のような窓のシミの向こうに、自分の姿が見えた。外の光が入り込むと、誰かが触ったような跡がその上を覆う。 この電車は青梅行き。途中吉祥寺からは各駅に停まるらしい。何度見ても青梅行き。見てしまうことは、見たがっているという行為に含…
影 はい、また来週火曜日同じ時間でお願いします。 お大事に、と声がするので頭を下げつつ、外に出た。なるべく声がしたら応えようと思うけれど、それが精一杯だった。カレンダーに、整骨院というタイトルだけの予定を書き入れた。 明日は友達と食事をする予…
生活 晴れた、そしてぼくは家にいる。他にやることの何よりも洗濯をしようという心地になった。 寝ぼけ眼をこする。そもそも他にやることなんてあっただろうか。 歯を磨き、顔を洗い、髪を簡単に整えてお茶を飲む。 休みの午前は何も考えずにTシャツに着替え…
影 品川に向かう電車の窓の外を見ているつもりが、いつの間にか開くドアの横に立つ人の、しゃりしゃりと音を立てるコンビニの袋を眺めていた。 その中には、サラダチキンとゆで卵が入っていた。 こんがりと日焼けした肌。ジャージを身に纏い、彼は姿勢良くそ…
影 ごうんごうんという音を背中から浴びていた。 後ろではスタッフと思わしき人が、洗濯槽に洗濯物を入れたり出したりしている。扉の閉じる音が聞こえた。 生活音のリズムを感じながら、僕は窓辺の席で人通りや街路樹を眺めていた。 保育士さんに手を引かれ…
影 「今年ももう6月、一年が経つのは早いですね」 チェーン店の中で流れるラジオDJが、そう言った。毎年耳にするセリフだ。 1月になったらあけましておめでとう、2月はもう正月は終わりで年度末がやってくるぞと、その勢いのまま3月を終える。 嘘はいけませ…
影 夜の11時、街路を歩く僕は悩んでいた。前を歩く女性が、明らかに後ろを歩く僕に恐怖を感じている。 でもこの道を通らなければ、僕は家に帰ることができない。 そう言い聞かせているうちに、僕は3度も分岐を曲がり、そしてその3度とも、今前を歩く女性と道…
書き出し 診察室のドアが閉まる音が聞こえた。廊下に立ち尽くした僕は、前からカートを押してくる看護師さんの視線を感じ、道を開けた。ベンチに腰掛け、何をどう考えたらいいかもわからずに、ただクリーム色に壁を見つめた。壁の染みが何かの形に見える気が…
書き出し 薄明かりの時間に目を覚ます。まだもう少し、そう思いながら閉じていく目蓋は朝の灯りを体に残していく。ほんの僅かな、今日という1日からの逃避行が始まる。虚ろになりゆく意識の中で、やろうと考えていたことが水のように、意識の中を遠くに向か…
霜を踏む音 野分もそのほとんどが過ぎ去り、すでに木枯らしが過ぎていったのだと心付いた。 そうか、体を震わすほどの空気があたりに満ちるのももう直ぐなのだ。 ざっざっという音が足の裏から伝わってくる感覚は待ち遠しい。 マフラーを巻いて、みんなが来…
秋は夕暮れ 丁寧におろしても、土から顔を出す、葉の付いた方は辛みが少ない。突き進む力強い部分がピリッとしているのか、などと考えながら街ゆく人を見ていると、ふと青春時代の自分はそうではなかったかと、気がついた。 思い出すのも恥ずかしい話だ。ふ…
秋は夕暮れ 計画を立てた時に思い浮かべた筋書きの中で輝く自分の動きは軽やかで、無駄がない。 明日までに片付ければ、明後日からこの作業に取り掛かることができる。 煌めきがぱっと心を明るくした。だが朝になってみれば、それは線香のように潰えていた。…
秋は夕暮れ 北からの風が肌を撫ではじめたら、もう僕が半袖を着て外に出ることはなくなるだろう。 そしてそれは暮れを意識し始める時でもある。今年ももう年末が迫ってきているのか。そう感じるまで、きっとあと少しだ。山間の景色は燃えるような色で満ち、…
心と秋の空 秋は過ぎ去るというよりも、通り過ぎているような感覚がある。夏を出た、という感覚は特にない。気がつくと袖を捲っていなかったり、外に出る前に一枚多く身に纏うようになった時、冬に辿り着いている。そこで吹き付ける風に耐え忍ぶように、春を…
心と秋の空 あるところで揉めている人たちの姿がクローズアップされると、それに知らない人が参加して各々の意見や感想を言う。そのためのアカウントを用意することもあるらしい。裏アカウント、それが個人を特定することができないという意味だと思われてい…
心と秋の空 何かを始める。そのハードルは年々高くなっている気がする。心のどこかで毎日の積み重ねがやがて実を結ぶと信じていて、そしてその日進月歩の道のりが楽ではないことを察知している。ただ生活するだけでも楽ではない。人生は長いようで短い。今か…
心と秋の空 友達からニュースサイトの記事のリンクが送られてくる、ということが、最近では珍しくない。むしろ挨拶の代わりになってすらいる。今日は僕の好きな野球関連のゴシップが飛び出してきたんだな、とか。オフィスに着くや否や同僚が話しかけてくるよ…
心と秋の空 なぜ女心と秋の空、などと女性が接頭しているのだろう。アナクロな表現であることに、無自覚で居続けたのだろうか。 ふとそんなことを思いながら、ぽつりぽつりと降り出した雨をしのぐように、着ていたパーカーのフードを被った。近くの薬局に行…