なおぼうけん

日々を探検したり、掘り下げていきます。

知っていたら、やらなかった

残暑はもう終わりました

肌を駆ける風が少しだけ冷たい。もうすぐ感想と寒さが街を支配する。

季節の移ろいを感じることは、僕が外を走る動機の1つになっている。家に走る機械があればそれを使えばいい、というわけではない。

ペースを何も考えずに走っていると、いつも行けていた場所にいつものように行くことすら困難に感じることがある。覚悟や想定、そして練習がそれぞれ大事で、それらがなかったことを甘かったと表現し、いけないことだと分類した結果、反省の言葉を述べるように根性を出す。そんなふうに言いながらも、走っているときはただ「まだできる」という言葉ただ1つにすがるような思いだけがある。それが根っこからくる言葉だとしたら、まさに根性ということなのかもしれない。

だが甘くなければ善である、とは思わない。

今日は少しだけ遠くまで行ってみるか。今日は少しペースを上げてみよう。

その先に変わりゆく何かがある。 そうした後、いつもと違う感覚になる。 そうでもしないとしれない何かがある。ささやかな期待があって、その間を埋めるように、走って近づいていく。

納得のいくある区切りを迎えた時、僕は辿り着く。

そこに着いた時、もう終わっている。旅の準備をしている時が一番楽しいという感覚に似ている。 だが着いているのにもかかわらず、僕がどこにいるのかをうまく実感することができない。振り返ると、意外と走ってきたものだ、としみじみ思う。

どこに向かうためにいるのか。

どうして僕は、ここに来たのか。決して楽ではなかった。こんなに辛いと知っていたら、やらなかったかもしれない。

無意識に探す、シアトリカルな意味。それはあくまで論理的に、そこに行きそうだと思った仮想の点に過ぎない。しかも、幾つもある。 そのどれかに達することが重要だと思うことが怖い。ほとんど辿り着くことがないからだ。まるで虻蜂とらずの自分が、そこにいたかのように錯覚してしまう。 いつの間にかまた新しい自分の殻が増えてしまうこともある。

どうして僕は、ここに来たのか。

季節を感じたあの時、このあたりに向かおうと思った記憶の残滓だけがあった。それに似た新しいコンパスのような何かが指し示すように、次へ行くところへと足は動いていた。