なおぼうけん

日々を探検したり、掘り下げていきます。

車窓

ごうんごうんという音を背中から浴びていた。 後ろではスタッフと思わしき人が、洗濯槽に洗濯物を入れたり出したりしている。扉の閉じる音が聞こえた。 生活音のリズムを感じながら、僕は窓辺の席で人通りや街路樹を眺めていた。

保育士さんに手を引かれて歩く子供、ベンチで酒を飲む人、丁寧そうに電話をしている、スーツの人。その後ろを畏まりながらついていく人。

片手肘をついて無為に外を眺める時間の中で、僕の眼鏡フレームは額縁になっていた。

「仕事は何をされているんですか?」
「大学では何を勉強されているんですか?」
「普段は何をされているんですか?」

うまく答えられたことのない質問に、今ならどう返そうかと、ふと考えた。

「もしかしたら伝わらないかもしれないんですけど、わかってもらえると嬉しいんですが・・・」

伝わらずに話が膨らまないことに恐れを抱いて前置きをしている自分がいることに気がついた。 走り去る車に反射する光が、建物の影を染めた。

相手への不信を大いに表すものへとなっているとしたら、目的を見失っているとしか言いようがない前置きだ。

乾燥が終わる音がして、大きな乾燥機の前に向かう。ある人は服を畳み、ある人は本を読んでいた。 僕は洗濯物を取り出す人だった。靴下、タオル、Tシャツ。取り出しては袋にしまう。

僕は普段、仕事でスーツを着ない。だからTシャツやポロシャツを着て会社に向かう。色なんて何でも良い。髪も長い。リュックを背負っているのはスーツを着ている人も、最近は一緒だ。どうやって揃えているのだろうと疑ってしまうほど、皆四角くて黒いリュックを背負っている。僕のリュックは緑色だから、そういうところは通勤時間帯においては異質なのだろう。

社会人らしくしたらどうなんだ。

いや、僕は社会人になろうとしたのではない。

仕事をして、自らの力で生計を立てている人を指して、社会人と呼んでいると感じるのは最近のことだけなのだろうか。そして社会人の基本やマナーを作り出す人がいて、その実をよく知らないままに学んだ上位者が、新参者にそれを課す。実が後から伴うことはよくあることだ。まずは身なりから、言葉遣い、仕事の仕方など、間違いがないようにということを念頭に置いた行動を要求される。スーツを着るのはその1つだ。だから理想的には、その人がスーツを好まなければ、スーツ以外の方法で社会とうまく交われればいい。実際そうしている人が多数いるが、しかしこれを着ていれば間違いではないという通念もあり、スーツは多勢を占めている。

僕たちはスーツを着ることを大人になることだと考えている節がある。だが実際にはその理屈は成り立たない。大人の中で、スーツを着ている人がいるというだけだ。見た目に何をしているかがわかる、どんな人かがわかることなどまずない。新撰組の羽織を身に纏うようなことがない限り、ない。

社会にいない人なんていない。

乾いたばかりの服を詰め込んだ袋は熱を帯びていた。肩にかけて、外に出る僕。乾燥機に洗濯物を入れ用とする音、自動ドアの開く音。

前を歩く人の髪の色は赤で、大きくて派手なシャツを着ていた。しかし、だからといってこの人は会社員でないとは言えない。 僕たちは急に子供の社会から、社会人という名札を余儀なくされ、大人の対応と呼ばれるものを強要される。それはまさしく、社会は理想的でないことを認めたゆえの構造と言えるものだ。

社会にいない人なんていない。

何も自分で考えず、決めてこなければ、なんとなく流れの中で合わせていけさえすれば、うまく生きていける。そのうちに働くのは悪知恵だ。徒花に実はならない。どうにかして、実を得たいと考える。社会の実を利用しようと考えるはずだ。何故なら今まで自分がそうしてきた流れのみは、実体験を伴って理解されているからだ。それしかやれることがない。

なあに心配はない、バレたら謝ればいいのだから。と考えてもおかしくはない。

その窓の向こうに、誰がいると思って生きていくのか。

はっと、僕は何をしているんだろうと思ったとき、信号は青になった。急に苦いコーヒーが、僕は飲みたくなった。