なおぼうけん

日々を探検したり、掘り下げていきます。

配管の上、皐月の下

「今年ももう6月、一年が経つのは早いですね」 チェーン店の中で流れるラジオDJが、そう言った。毎年耳にするセリフだ。

1月になったらあけましておめでとう、2月はもう正月は終わりで年度末がやってくるぞと、その勢いのまま3月を終える。 嘘はいけませんよと言ってゴールデンウィークに浮かれるうちに5月が過ぎ去り、徐々に汗ばむような気温に変わって来るのを実感するうちに、上半期は終わりに近づく。最後の方は、傘をさしたままだ。その傘を閉じる頃には、焼け付くような陽射しが降り注いでいるだろう。

早いのではない、時の流れに無自覚でいるだけなのだ。時々刻々と色々なことが起きている。それに対し、どれを受け取って、どれを棚にしまい、どれは机に置いたままにするか。そしてどれは見もせずに捨てるのか。受け取ったことにも気がつかずにいるのか。

店を後にした。

なるべく良いものだけがその棚にあって欲しい。僕は心のどこかでそんな淡い期待を抱いた。

街の喫茶店に向う途中だった。街路を奥へと入っていくと、家の裏側、マンションの裏側が並んでいる道があった。 張り巡らされた配管、電気系統の設備。まるでそれを置く場所であったかのように置かれた、缶コーヒーの空き缶。

スーパーの前を通り過ぎる時、何故か入ってしまった。喫茶店に行くことはもうどうでも良くなっていた。

立ち並ぶ高級なフルーツがお出迎えしてくれていると、その後の野菜は少々高かろうがあまり気にならなくなる。 お得かどうかで選ぶセンサーだけが過敏になってきて、そうして欲しいものがよくわからなくなってくる。

工夫が積み重ねられた様々な構造の中で、感覚が騙されていくのも、僕たちの日々の1ページにはきちんと描かれている。

生鮮コーナーで魚を見ていると、隣の夫婦が話をしていた。カレイが食べたいわ、いやお前この前は鮭と言っていて喜んでいたじゃないか、あの時はそういう気持ちだったのよ、いつもそういうじゃないか。取り留めのないやりとり。カレイは600円、鮭は400円ぐらいだった。

過ぎていく日々の中で、すんなりと理解される流れというものを、僕らは不思議と共有しているものだ。 価格が安いこと、近くにあること、時間がかからないこと。 それが大事かと言われたら、大事と答える。 本当に大事かと言われたら、わからない。

社会の中で、何故か息を潜める自分。とりあえずの先に見たいものは、一体なんなのだろう。

スーパーの袋を下げて家へと向かう。路上駐車するタクシー、外で煙草をする運転手。 咲いた皐月の下に溜まる様々なごみが目に入った。

信号が赤になったのを見て、立ち止まる。黒い四角いリュックを背負った若者が威勢よく通り過ぎていった。 スマホを取り出して、アクアパッツァを作る手順の思い出そうとした。もう煮魚でいいか、と思った頃、信号が青になった。