なおぼうけん

日々を探検したり、掘り下げていきます。

街の方が合っていない

品川に向かう電車の窓の外を見ているつもりが、いつの間にか開くドアの横に立つ人の、しゃりしゃりと音を立てるコンビニの袋を眺めていた。 その中には、サラダチキンとゆで卵が入っていた。

こんがりと日焼けした肌。ジャージを身に纏い、彼は姿勢良くそこに佇んでいた。

サラダチキンを眺める。これが馴染んでからどれぐらいの時が流れただろう。健康増進、ジムに行って、プロテインを飲み、食事は糖質を制限。そのリズムの中に、それは見事にはまっていった。どこでも手に入るようになり、そこまで値段が高くないことが後押しもした。

もっとも、何度も買えばそれなりの金額にはなる。こうした積み重ねは、効果を得られていることよりも、効果が得られていなければおかしい、すでに得られているこの効果を失いたくないという思いにすら変換させるだろう。

いつしか食事の楽しさにまさる、何かになってはいないのだろうか。

「30を過ぎたら糖質制限!」ふと目をあげれば脱毛、開運、マンション売買や葬儀情報ばかりの車内で、特に目をやる場所もなく手元の窓を覗き込んでは、そうした情報を目にすることだって少なくない。

インターネットで得た知識があるということは、インターネットに触れる時間があったということだ。 誰かの顔を見て、いや、最近ではそういうこともあるのかもしれないが、一人の時間であることのほうが多いだろう。

じっとそこで虚空を見つめ、ひとり考え、何かを想う。そういうことがぐっと減って、誰かの何かを見ることが増えた。

頭の中に散らかった誰かのルールが、あなたに判断を迫る。怒ることもあるだろう。じゃあどうしたいのに答えられないあなたは、過程を知らない周りの人からすればうとましく、やがて一人になるかもしれない。

一人の時間を大切にしなくても一人の時間しか訪れない人、それは特定のカテゴリにいるようにみえるだけで、どこにも属さない。

心の迷走はまもなく最寄り駅に到着する案内でゴールテープを切った。我先と立ち上がり人をかき分け降りるサラリーマン。

大通りに面した公園ではきれいな服を身につけた大人がお酒を飲み、時に吐いている。その脇を通り過ぎてスーパーとコンビニの中間のようなお店に入る。

炭酸、アイスを買う。レジ上の袋サイズを選ぶシールの擦り切れに、時の流れを感じた。

表に出た。この公園は昼間、子どもたちが散歩をしているところだ。そのことを、ここに立ってみた景色が思い出させた。

寒空の下で飲む暖かいココアはおいしい、そう思っていた頃から半年が経ち、じめっとした気を余計に纏って歩かなければならない季節になった。

通り過ぎてきたあの場所にいた人は、そこにいることを強制されてなどいない。その道のりによって、彼らはたまたまそこでそうせざるを得なかったのだ。

そう、きっと街のほうが合っていない。