なおぼうけん

日々を探検したり、掘り下げていきます。

方程式

時計の針、PCのファン、エレベーターの上下する音。その中に、コーヒー豆をする激しい音が鳴り響いた。 誰もいないオフィスの中に。ごぽごぽという音が聞こえ、カップの半分ほどのところまでコーヒーが入ると、あとは力なく、コーヒーの雫がぴちょんぴちょんと落ち入っていく。 いつまで経っても量の調整方法はわからない。 カップをそっと取り上げ、揺らぐ液面の中で踊る光に、彼は少しだけ気だるさを覚えた。

溢れる気配のないカップを手にすたすたと自席に戻り、もはや見たくもない企画書をようやく眺め出した。 画面と、その横のあたりに置いたコーヒーのカップ。 何度も行き来するように見ては、ため息をついた。 窓の外はもう夜の黒で濁りきっていて、何色を入れても染まりそうになかった。 また一口、コーヒーを啜る。湯気で曇った眼鏡が視野を取り戻し始めると、彼はその手元にあるそのカップの液体に吸い込まれ、 暗いトンネルの中を歩いているような気持ちになった。じっと苦味を携えて。

どうでもいいと思っていたことがぼんやりと頭の中にあって、トンネルの中を歩けば歩くほどその形が鮮明になっていった。 おれは今どうして1人オフィスに残っているのだろう。 後輩たちの誘いを、どうして、いつものように断ってしまったのだろう。 どうして断ってしまったことをこれほど何度も考え直しているのだろう。 そうやって、せめて頑張っている様子をみせて、なんとかみんなに認めてもらおうとする魂胆がどこかにあったんじゃないか。 トンネルの光が徐々に近づいてくる。それなのに、核心に近づいたような感覚はなかった。ただ次のトンネルがまた姿を現してきた、そんな感覚だった。

エレベーターのボタンを押した時、そこまできてようやく、今日はもう帰ろうという気になった。 PCは閉じただけだったから、戻ってコートおけば、またすぐに再開できる。そういうつもりを残しておいたのだった。 それもボタンひとつで雲散霧消してしまうのだから、もう粘り腰が持ち味だなんて言えないなと自嘲しつつも、 疲れを理由に、今日の夜はたまたまだと思いまだ持ち味は生かしておくことにしたのだった。

オフィスビルを出るとすぐにイヤホンをした彼は、いつもの世界に良くも悪くも戻った。 彼の耳は塞がれて、彼の世界、彼が望むような世界に引き込む音が耳から入ってくる。 眼下にみる人の流れは彼が望むような世界にはない。足音の織りなすリズムの中で、理想と現実を同時に浴びせられながら彼は歩いた。 彼はいつか胸を張って自分の理想の道が前に広がると思っていた。 だから今は道を踏み外してはいけないと。なるべく間違いない道を選ぼうと歩いていた。 気持ちだけはいつも理想を描こうと、彼は歩いていた。

電車の入ってくる音、ドアの開閉音、コンビニに流れる今月のおすすめ。 1日の最後に交わした言葉は、袋はいらないです、だった。

彼の周りから徐々に足音が少なくなっていった。

一口啜られる麦茶

生活

「はさみがない、はさみ、はさみ」
と、微かな声を出しながら部屋を徘徊する、赤い服を来た男がいた。 部屋は整頓されているけれど、ある場所は物が溜まっていて、ある場所は物がない。 だから似たような場所を行き来しながら、本やケースを持ち上げながら、その隙間からはさみが見えないかを、彼は探り続けているのだ。

彼は赤い服を脱いだ。暑くなりそうだったからだ。 黄色いTシャツの裾を持って、それをはためかせながら窓の外を眺めた。 最後にどこに置いたかを、それ以前に、何に使ったかを思い出そうとしているのだ。 もう家を出て、途中のコンビニで買ってしまおうかと思っていたけれど、 同じ理由で集まったであろうスティックのりとホッチキスがさっき顔を覗かせていたのを思い出し、 何も無理することはないのに、今日こそはと彼は奮起していたのだ。その興奮を抑えるように、推理という冷静な手段を彼はとったのだ。

ついでに見つけた団扇を手に取って額の汗が引くまで彼は煽いだ。

洗面台の鏡の前に彼は立った。制汗スプレーを手に取り、使った。髪を少しだけ整えて、その時眉毛を一瞥した。 それがどうしてか、気になった。整っていないからではない。そこまで細かいことを気にするほうではなかった。 その後に眉切りばさみに目線が動いて、でもそれを手にすることなく、彼は思い立ったかのようにはさみを探し始めた。

もう手で紙を切ってしまおうかとも考えていたが、一旦喉から落ち着きたくなった彼はお茶を飲むことにした。 冷蔵庫の扉を開けて、麦茶の入った容器を取り出す。あと2杯分ほどしかない、その麦茶の量が彼は気になった。 一息で飲み干し、彼は机に向かった。

切るはずだった紙を丁寧に、半分に折った。ペンの裏で折り目を強くつけた。

また洗面台まで行った彼は、髪をヘアゴムで縛り上げ、そしてまた、眉切りばさみを見た。 目線を自分の顔に戻した。何かが撥ねた白い跡が鏡についている。机まで戻ると、切られた紙をファイルに入れ、そしてバッグに放り込んだ。 家を出る予定時刻はもう過ぎていた。

家を今まさに出ようという気持ちができていたのに、彼は足を止め冷蔵庫から麦茶を取り出した。 残っていた麦茶をコップに注ぎ、そして容器の蓋を開け、彼は水道の水を流し入れた。 冷蔵庫から取り出した麦茶のパックを入れると同時に蓋を閉め、冷蔵庫に仕舞い込んだ。 素早い動作だった。

彼はゆっくりと麦茶を一口啜った。ほどなくしてドアの閉める音が部屋を響かせた時、半分以上残っていた麦茶が、コップの中で微かに震えた。

僕は名前を知らない

生活

談笑する中年の女性店員たちの後ろで、ひたむきにレジの対応を行う彼女の名前を僕は知らない。 20時を過ぎた店内は、外と対して気温が変わらない。南瓜や栗の味のお菓子や、紫色のパッケージが店内を少しだけ彩っていた。 ポイントは貯めていない。彼女はそれでも、丁寧に確認してくれる。ICカードで決済している間に、少しのものなら袋に入れてくれるようになった。 手順を1つずつ思い出すように、必死に確認していたあの頃と違って、彼女には明らかに余裕があった。 ありがとうございますと言って、店を後にした。電子レンジの前で、袋をたくさん抱えたおじいさんが、何かを温めているのが見えた。 何を温めていたのだろうと思っていたとき、道路の脇で煙草を吸いながら座っているおじさんが視界に入った。彼もよく見る人だ。 名前は当然、知らない。

翌朝、天気予報を特に見ることもなく、部屋で着心地がいいものを身に纏って外に出た。 社員証を忘れていないか確認したとき、後ろから同じようにジャケットを着た女性が外に出て行った。 よかったとも、少し違うけれど、気温の感じ方やこれからの上がり方に大きな相違がないと安堵した。 駅前の横断歩道で、彼女は信号を待っていた。車が来ないとわかると、いやわかったのか、彼女は横断歩道を駆けて行った。 彼女は朝にしか見たことがない。もちろん名前なんて知るはずもない。

オフィスのあるビルまでたどり着くと、少しだけ遠回りをしていつものコンビニに行った。 アールグレイの紅茶を手に取り、レジまでまっすぐ向かう。 鍛え抜かれた店員さんは、一切無駄な動きがない。こちらがICカードを出す前に、彼の作業が全て終わっている。 ありがとうございますといってその場を後にしながら、ほんの少しだけ恐怖を感じていた。 彼の名前は、やはりわからない。

12時になって階下のお弁当屋さんに行った。ナシゴレンを頼むと、おまけだとオーツミルクをくれた。 オフィスに戻る途中に警備員さんがいた。給湯室では、同じフロアでたまに見かける人がコーヒーを淹れていた。 退屈そうにスマートフォンをいじっている。僕はお弁当を広げてゆっくりと食べ始めた。

帰りの電車、窓の外の景色が流れていく。時々駅で乗り降りする人がいるけれど、彼らのことをいつものあの人だと思ったことはない。 どこかで降りていく。彼は、彼女は、家に帰ったのかどうかもわからない。 心なしか落ち着いているように見えるのは、そう見たかった私の思いがそう感じさせているのかも知れなかった。

家の近くにある薬局で缶チューハイを2本手に取り、レジに持って行った。 その途中で柔軟剤がなかったことを思い出して、詰め替え用のパックを1つ選び取った。 温泉の素を眺めた。新しい商品は増えていない。 手に取ったものをレジで渡しながら、袋をお願いします、と頼んだ。 そのとき、いつもの店員さんだ、と思った。彼女の名前は、やはり知らなかった。

大通り公園の水道の前で、いつものおじさんが缶の何かを飲みながら座っていた。

マンションに着き、エレベーターの上矢印ボタンを押した。 明日は友達とカフェに行く。 エレベーターの中で、ちょっとだけ勢いよく9階と閉まるボタンを押して、どうしてかその時は部屋に向かうことすら心が躍った。