なおぼうけん

日々を探検したり、掘り下げていきます。

僕は名前を知らない

生活

談笑する中年の女性店員たちの後ろで、ひたむきにレジの対応を行う彼女の名前を僕は知らない。 20時を過ぎた店内は、外と対して気温が変わらない。南瓜や栗の味のお菓子や、紫色のパッケージが店内を少しだけ彩っていた。 ポイントは貯めていない。彼女はそれでも、丁寧に確認してくれる。ICカードで決済している間に、少しのものなら袋に入れてくれるようになった。 手順を1つずつ思い出すように、必死に確認していたあの頃と違って、彼女には明らかに余裕があった。 ありがとうございますと言って、店を後にした。電子レンジの前で、袋をたくさん抱えたおじいさんが、何かを温めているのが見えた。 何を温めていたのだろうと思っていたとき、道路の脇で煙草を吸いながら座っているおじさんが視界に入った。彼もよく見る人だ。 名前は当然、知らない。

翌朝、天気予報を特に見ることもなく、部屋で着心地がいいものを身に纏って外に出た。 社員証を忘れていないか確認したとき、後ろから同じようにジャケットを着た女性が外に出て行った。 よかったとも、少し違うけれど、気温の感じ方やこれからの上がり方に大きな相違がないと安堵した。 駅前の横断歩道で、彼女は信号を待っていた。車が来ないとわかると、いやわかったのか、彼女は横断歩道を駆けて行った。 彼女は朝にしか見たことがない。もちろん名前なんて知るはずもない。

オフィスのあるビルまでたどり着くと、少しだけ遠回りをしていつものコンビニに行った。 アールグレイの紅茶を手に取り、レジまでまっすぐ向かう。 鍛え抜かれた店員さんは、一切無駄な動きがない。こちらがICカードを出す前に、彼の作業が全て終わっている。 ありがとうございますといってその場を後にしながら、ほんの少しだけ恐怖を感じていた。 彼の名前は、やはりわからない。

12時になって階下のお弁当屋さんに行った。ナシゴレンを頼むと、おまけだとオーツミルクをくれた。 オフィスに戻る途中に警備員さんがいた。給湯室では、同じフロアでたまに見かける人がコーヒーを淹れていた。 退屈そうにスマートフォンをいじっている。僕はお弁当を広げてゆっくりと食べ始めた。

帰りの電車、窓の外の景色が流れていく。時々駅で乗り降りする人がいるけれど、彼らのことをいつものあの人だと思ったことはない。 どこかで降りていく。彼は、彼女は、家に帰ったのかどうかもわからない。 心なしか落ち着いているように見えるのは、そう見たかった私の思いがそう感じさせているのかも知れなかった。

家の近くにある薬局で缶チューハイを2本手に取り、レジに持って行った。 その途中で柔軟剤がなかったことを思い出して、詰め替え用のパックを1つ選び取った。 温泉の素を眺めた。新しい商品は増えていない。 手に取ったものをレジで渡しながら、袋をお願いします、と頼んだ。 そのとき、いつもの店員さんだ、と思った。彼女の名前は、やはり知らなかった。

大通り公園の水道の前で、いつものおじさんが缶の何かを飲みながら座っていた。

マンションに着き、エレベーターの上矢印ボタンを押した。 明日は友達とカフェに行く。 エレベーターの中で、ちょっとだけ勢いよく9階と閉まるボタンを押して、どうしてかその時は部屋に向かうことすら心が躍った。