なおぼうけん

日々を探検したり、掘り下げていきます。

勝利

道路の方に目をやると、交差点を右に曲がろうとウィンカーを出した車を僕は捉えた。 赤い軽自動車だった。停止線に向かってじっとりと進んでいき、やがて止まった。 その左脇を1台の原付がするりと走っていき、軽自動車の前に出た。

その後のことは見ていない。右手をポケットに入れて、スマートフォンを取り出したときには、もうこの光景は彼の頭からは頭から消えていた。 走り去るバイクの音が響いているのが聞こえているはずなのに、彼はそれが先のバイクであるとは考えようともしない。

「先輩、今日この後よかったらみんなで飲みに行くんですけど、もし良かったら先輩もどうですか。」

後輩がそう声をかけてくれたが、彼にはそれにうまく応じる余裕がなかった。

「ああ、でもきょうはちょっと。ごめんね。」

後輩は何か言ってその場を後にした。机に外回りの資料を置いて、PCを立ち上げた。 バッグの中に入れた煙草を探しながら、思わずため息が漏れた。ただ少し出たところで、後輩に聞かれまいと、それを止めた。 煙草を取り上げて居室を出るときに談笑する後輩たちの姿を、彼は少しだけ見た。あの人面倒だよね、と言われているような気がして。 全く関係ない話をしているように見えたのが彼の心を安堵させつつも、ここを出てからは何を話すかわからないな、と彼は思った。

『また何もせず帰ってきたのか。』
『ほんの少ししか時間がない時こそ、エレベータートークだよ。なんだ、そんなことも知らんのかお前は。』

またそういうことを上司に言われる。彼の心にはいま、外炎は片時も同じ形をせず、灰色の炎がまるで不安そうに揺らめいていた。 知っていたとしたら、だから何なのだろう。彼の中をこだまする声なき声は虚しさを増すだけだった。

屋上の扉を開けて、灰皿に辿り着く前に彼は口に煙草を咥え火をつけていた。

とりなしたものがいくつあるかが、彼の、そして彼と同じ状況にいる人の成果であった。 そのために頭を下げる者、何か手当たり次第とプログラミングスキルを身につける者、資格を取る者。 彼はそのどれにも属したくなかった。構造に従うように、手のひらの上で踊らされるように時間を費やす人たちだと、彼は軽蔑すらしていた。 人気者になりたいとか、そういう浅い動機が彼らを突き動かしているのだと、そう思っていた。

一度彼の体に入り、宙に舞う紫煙。形を失い消えていく様子を彼はただ目で追っていた。 それは彼の、いまだ理由なき理由を探している様そのものだった。 それには気がつかないふりをしたくて、彼は2本目の煙草を取り出し、火をつけた。 気分は晴れず、少し苦味を感じたけれど、体がそう思うことよりも、心がそうすることを欲していたから、止めることはできなかった。

夕暮れ時の空が眼下にあった。黒が押し寄せるということをつゆとも気にかけず、紫と赤が光り輝いていて、そして混ざり合っていた。 ふと、その光に包まれるように2人組の子供達がお互いのランドセルを叩いたり、何かを話しては走っている様子が見えた。 彼はその背中に、何かを探そうとした。

指に土の感触がする。ピストルの音が聞こえ、彼は一目散に走り始めた。 腕を早く振る。足を早く下ろす。それが早く走るコツだと、先生は言っていた。 彼はただ走った。ゴールテープを駆け抜けた時、係の上級生が彼の胸元に1位と描かれたシールを貼ってくれた。 弾む息を抑えながら彼はあたりを見回し、そして手を振る母親の姿を見つけた。隣には父がいる。カメラで顔は見えない。 照れ臭くて、彼は背中を向けた。

吸い込んでももう煙は彼の体には入って来ず、嫌な味がして彼は我に返った。 もう薄暮の街に灯るあかりの方が目立ち始めている時間まで過ぎていた。 そろそろ家に帰ろう。仕事は、今日はもういい。わからなかった、彼には何もかも。そう言い聞かせてはまた何かが今を変えてくれる、それが彼にはあるのだと、彼は信じていた。 それが彼の希望で、そして彼自身にはそれが最後の希望であるとは見えていなかった。

机に戻りブラウザを立ち上げると、いつものように今日のニュース記事が見えた。 後輩達が既にいなくなっていることに気づいたのは、幾つかのニュース記事を閉じた後だった。