なおぼうけん

日々を探検したり、掘り下げていきます。

2020/05/28 線香・エイプリルフール・確率

今日何があった?

線香:弓と禅に、世闇の中、実際に的前に立ち弓を引く師、そしてそれを見る弟子、関わる問答を描写する箇所がある。いま弓を引く師と書いたがこれは正確ではない。なぜかは本を読み考えることになる。このシーンで甲矢と呼ぶ1本目の矢をつがえ的に狙いを定める際、的として線香を射る。微かな明かりが28m先にあり、それを狙う。こう表現するのが客観的な描写ではあるが、繰り返しだがこれも狙っているものではない。2本目である乙矢も同様のことをするのだが、甲矢によって線香はなくなっているため世闇に向かい矢を放つことになる。だが結果として甲矢の真後ろに継ぐ形で乙矢は的前に放たれた。これに対し、狙うとは何か、などという問いが問答される。このシーンがたまらなく好きだ。学生時代のことを思い出しながら、今日久しぶりに概要を読んだ。これから詳細を読む。

エイプリルフール:浜辺美波を見ていると、こんなに透明感のある人が有村架純の他にいるなんて・・・と思う。JAのCMで二人が姉妹役になった時、これほど事実がすぐに受け止められたことはないなと思うぐらいだった。子役から大物女優になるパスを歩む人も少なくない。浜辺美波もその一人だ。その俳優としての姿を今日たまたま、「エイプリルフールズ」という映画を観ていて確認した。最初はよくわからなかった。若すぎて。しかし立派に感情の機微が表現されていて、若くしてこれほどの活躍をされていたとは、と少し自分がちっぽけなものに感じた。そんな思いも湧きつつ、でもいい映画でした。群像劇好きです。

確率:確率は時に直感的ではない。というか確率は直感的であるということはしばしばバイアスを引き起こす。論理的なものだからそれによって直情的になることは愚かである。でもその愚かさこそが人らしい。僕も例外ではなくその一人で、例えば明日90%の確率で死ぬでしょうとまるで低気圧配置の空模様をお伝えするかのような調子で言われたら、困ってしまう。この場合は急すぎて悲しむよりかは笑ってしまうだろう。100人並んでいて、1%の確率で直前で店に入れなくなるとしたら、それが自分だったらとてもショックだと思う。事前に知っていたとしてもだ。確率で一喜一憂するのはしょうがないことだと思うけど、確率論を仕組みとして理解し、事象に納得する力は必要だと思う。

今日の書き物

回りくどいという表現は必要な情報をすぐに得たいのに得られないもどかしさが生んだ表現のように思える。

「今何時?」と聞いて

「今日時計を新しくしたんだ、だから正確な時間を言える。これがどのくらい正確かというと1年に0.0001秒しかずれないんだ。これはつまり1万年後に1秒ずれるってことなんだ。だからもし君が1秒ぐらいの誤差なら許容できるのであれば、僕の回答に何時だって満足できると思うよ。まあ本当にずれないかを信じるところから必要なんだけどね、そこは僕を信じてもらうしかないかな。もしくは運に任せよう。人生万事塞翁が馬みたいなことさ。これは幸不幸だから時間はあんまり関係ないかな。人生万時と言い換えたらまるで人生の間に1秒ずれるみたいに感じないか?流石に論理の飛躍が過ぎたね。今13時02分だよ。」

こんなふうに答えたらこれはくどい。くどいを通り越している。最後の方に余計なことまで言っている。 おそらく聞きたかった人は13時になっていないかを気にした可能性がある。そうなると聞き損とも言える。

だが論旨を的確に表現する際は日常会話では不必要と言えることも丁寧に記述しなければならない。そういった文章はくどいとは言わない。この点において例えば現代文の小説は読みやすくて論文は読みにくいだろう。 しかし確率論のように的確に順を追って理解しないことには意味をなさず、結果的に社会に大きな損失を引き起こす可能性がある。 もっとも、社会の中で我々は生かされているという発想がない場合、こうした考え方をするには至らない可能性はある。

身に降りかかったことは直情的に判断する傾向があることは上記でも述べた。 この想いの強さを語るために必要以上に、論理的には必要ではないかもしれないことも含めて長々と話すことはある。 どうしても必要なんです、娘のためなんです、一人娘なんです、他にも患者さんがいることはわかっています、でもどうかお願いします。お願いします。 これを意味のない文章と呼ぶ人はいないだろう。 ドラマで冷酷な医者が「しつこいんだよ」と突き放すシーンはありそうだ。もちろんフィクションとしてのストーリーを構築するために。

生きている中で無駄だと思うこともたくさんやっていて、それを回りくどいことをしてきたと自嘲するとしたら、その表現自体をあまりおかしいとは感じない。多少支離滅裂なところもいい味を出しているように思いすらする。 小説的な表現、特に純文学はある意味ではくどいと思う人もいるかもしれない。でも僕たちは例えまっすぐに見えたとしても、それは大局的に都合の良いポイント同士を線形保管するかのように見ているだけで、実際毎日は曲くねった道をひたすらに進むしかない。無駄かもしれないことでも意味を解していないだけかもしれない。それが綺麗事だと言って切り捨てる尖った青春時代だってあるかもしれない。

先を急ぎたい気持ちはわかるが、目標はポイントであってそこまでの道は決して直線とは限らないと納得して、そこに到達した時に自分なりに理解するようにしたい。 そういうことを考えていた、という割には回りくどかったかなと反省している。

目標は点だから、どうありたいかなんだな。改めて弓と禅における「それが引く」ということを考えてみたくなった。